破廉恥助平、戯れ言の極み

時間を無駄にしたい人向けのブログです。やる事がない時にフラッと立ち寄る感覚でどうぞ。ツイッターID、@HARE_SuKeBe ‬

別担拒否のような同担拒否のような

今日の話題は私の推しに対する感情や理念について。

 

ここで、ワシの思う『推し』とは何かを述べていこうと思うゾイ。

 

『推し』とは、単に自分の好きなキャラと定義してもよいが、しかし我に言わせてみればそれは少し違うという気もしている。

 

拙者に限らず、推しを持つ者は『推しにはこうあってほしい』という願望があると思うでござる。

 

そしてオイラは『推しにはこうあってほしい』という願望が果たされてこその『完全な形の推し』であり、『不完全な形』、つまり願望通りになっていないとワテの好きな推しと違うと思うんや。

 

おいどんは『別担拒否のような同担拒否』であると自負している。

 

たとえば『他人と同じキャラを推している』としても、『推しにはこうあってほしい』という願望に差異が生じればそれは見ている景色、見たい景色が違うということになり、『同じキャラクターではあるものの精神的に違うキャラクターである』という複雑な状況が完成する。

 

そう、解釈が違えばそれはもう違うキャラクターなのだ。

 

しかし、『違うキャラクター』を『お前の推しと同じキャラクターだ』と言われてしまえば、その瞬間吾輩はソイツに殺意が湧いてしまうだろう。

 

『コイツはまともな読解力もなければ人に気遣うこともない無神経な奴』と考えてしまい、そんな奴と同じ惑星に住んでいることすら生き恥を晒しながら生きていることのように感じてしまうのだ。

 

しかし決して他人と同調しない訳ではなく、解釈が合うのならば他人に尊敬や敬愛の念を抱くこともある。

 

とにかく、解釈が違う人間は敵であり、忌むべき存在である。

自分の解釈のみが正しいのだ。

 

しかし、解釈違い共はきっとワテクシの気持ちを理解することはないだろう。

 

解釈違いはウンコを食い泥水を飲むが、ワイはちゃんとした食べ物や飲み物しか食べることができないように見えるんや。

 

しかと解釈違いは『ウンコもイケるぞ!』と声を大にして叫んでいる。

 

ウンコがイケる訳がない。しかしウンコを食って生きている解釈違いにこの事実が理解出来るわけがない。

 

そして、出来るだけ平等主義なオラでも、ちゃんとした料理を食べる選択肢を捨ててまでウンコを食って生活している人間のことは流石に軽蔑してしまう。

 

つまり解釈違いを軽蔑してしまうのは当然の感覚であり、同担拒否ないし別担拒否へと繋がるというわけだ。

 

ここまでウダウダと述べたが、つまるところ『自分と違うものを許せない』というワガママな思想であるため、賛同は要らない。賛同出来る人は異常者だと思う。

 

これはミーのワガママな思想なのさ。

 

written by 最後に読み返してみたら『俺』と『僕』を使ってないことに気付いてしまい困惑しているハレスケ

男の尻の物語

これは、罰だ。

 

禁を破った僕への、罰。

 

そもそもそういうものだった。

 

そういうルールだと了承してここにいる。

 

にも関わらず、僕は耐え切れなかった。

 

男が入ってくる。

 

男は太いモノを握りしめながら入ってきた。

 

今からその太いモノが僕の尻に衝撃を与えるんだ。

 

僕は腹を括った。

 

来るなら来い、と尻に意識をやる。

 

だが入ってきた男の太いモノの勢いはあまりにも激しく、尻にぶつかる瞬間僕は激しい痛みのあまり情けない声を出してしまった。

 

すると僕の情けない声に、隣にいた男が『ふふっ…』と笑ってしまう。

 

すると、大きな音とアナウンスがその部屋に響き渡った。

 

『デデーーーン!!!!!』

 

「方正、アウトー!」

 

 

方正は青ざめた。

最近の若者はたるんでいる。

最近の若者はたるんでいる。

 

特に私が思うのは、最近の若者がたるんでいる、ということだ。

 

何故最近の若者がたるんでいるのか…。

 

それは、最近の若者がたるんでいるからだ。

 

だから私は、最近の若者はたるんでいると思う。

 

もう一度言おう。

 

最近の若者はたるんでいる。

 

このことは非常に悩ましいことであると考える。

 

最近の若者がたるんでいるせいで、悩ましさのあまり同じことを繰り返し言ったりしてしまう。

 

最近の若者のせいだ。

 

オタクに彼女が作れない理由についての考察

今日のテーマはオタクが彼女を作れない理由について。

 

これは学校から帰る通学路でふと考えていたことです。

 

まず挙げられるポイント、これが非常に大きいだろう。

 

『オタクはコミュニケーション能力が低い』、これがまず最初の理由である。

 

何故オタクはコミュニケーション能力が低いのだろうか…。

 

ここで、まずは『オタク』と『非オタク』の違いについて考えてみよう。

 

何より一番違うのは、趣味の範囲だろう。

 

たとえば非オタクは西野カナが好きだが、オタクは西野カナが嫌いである。

 

この西野カナへの好感度だけでもオタクと非オタクの違いが顕著に現れている。

 

さらにもう一つ、非オタクにはリアルで友人を作ることに長けており、趣味の合う友人が多いが、オタクはそうではない。

 

それは何故か。

 

非オタクに友人が多い理由は『非オタクはオタクに対して優しく接することが出来るから』、オタクに友人が出来ない理由は『オタクは非オタクに対して優しく接することが出来ないから』と言わせていただこう。

 

そう、オタクにリアルでの友人はいないのだ。

 

しかし、『友人など要らない』と考える人間はそうは多くない。

 

オタクも友人を求めるものだ。

 

オタクは、友人の条件として『趣味が合う』ということを特に強く求めがちである。

ところが悲しいかなオタク趣味を持つ人間とリアルで巡り会う機会はそうない。

 

こうして他人とのコミュニケーションをとることなく日々を過ごしてしまうため、オタクのコミュニケーション能力はみるみる低下していく。

 

そう、最初に示したように、『オタクのコミュニケーション能力が低い』ということになるわけだ。

 

 

2つ目の理由。

 

それは、『オタクの固定観念』にあると考えている。

 

数学の公式の証明のように順を追って説明しよう。

 

まず、『オタクはゲームに影響されやすい』→『オタクの固定観念を形成したものの一つはゲームである』ということ。

 

ここに『恋愛』の要素を絡めると、『恋愛ゲーム』に行き着く。

 

恋愛ゲームには様々な種類があるだろうが、『好感度を一定まで上げないとフラグが立たない』ということは恋愛ゲームでよくあることだろう。

 

オタクは、この『フラグを立てないと成功しない』という固定観念に囚われているのだ。

 

ならば『フラグが立つように好感度を稼げばどうだろう』と考える人もいるだろう。

 

だがここで思い出してほしい。

 

『オタクはコミュニケーション能力が低い』

 

ということを。

 

そう、だからオタクに彼女を作ることは不可能だ。

 

我々は一生童貞、それを受け入れ死んでいこう。

 

 

 

 

 

記念すべき10番目の記事

このブログが10回も続いたようだ。

 

何も考えずに作ったブログであり、更新したいこともなくて放置気味なこのブログが10回も続いた。

 

続きが思い付かない。

今日の記事はここで終わりとさせていただく。

凍結された前垢で書いた嘘松ツイートをそのままコピペしただけのやつ

クラスの休み時間に起こったこと

俺が全裸で逆立ちしてたら、突然女子にポコチンを握られた。

ポコチン握られたのちょっと理不尽だと思ったから、「俺のポコチンそんなに興奮すんのか!」って怒ったんだけど、そしたらその女子突然泣き出した。

それを見ていた周りのクラスメイトがみんな俺が悪いんだってな感じで責め立ててきたし、俺は全裸で寒かったし、たまたま見ていた先生には怒られるしで、もー気分は最悪。

これ、僕が悪いですか????